『飛ぶ教室』(エーリヒ・ケストナー、池内紀・訳)



名作とは何度読んでも面白い作品である。しかも新訳となると、同じなのだけど違う味わいを楽しむことができるという喜びがあります。もちろん前の方がよかったということもあるでしょう。新しい方が味わいやすいということもあるでしょう。どちらもそれぞれの味わいを楽しむことができる。そんなものもあるでしょう。
数多くある『飛ぶ教室』の中でも、読みやすさと味わい深さは随一かも知れません。新しいのだけれどクラシカルでもある。それは少し古めかしい言葉遣いが為されているから感じるものなのかも知れません。それが作品世界に融け込み、世界の入口を広げてくれます。
ケストナーの作品の中でも一番好きなものであり、子どもと接する大人の必読の書だという想いは、この何度目かの再読で益々大きく感じられました。(因みに『窓ぎわのトットちゃん』も必読の書だと思っています。)子どもを子ども扱いはせず、かと言って見離しもせず。きちんとした「大人の目」で書かれた子どもの物語なのでしょう。子どもたちが活き活きと描かれているからこそ、大人の役割を強く感じる。そこが素敵なのです。
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『チョコレート王と黒い手のカイ』(ヴォルフ・ドゥリアン、石川素子・訳)



アメリカのチョコレート王がベルリンにやって来て「求む広告王!」と新聞に広告を出した。それを受けて街の子どもたちの秘密結社「黒いて団」のリーダーカイは名乗り出るのだった。
大人の広告専門家とカイたち子どもたちとの広告合戦が荒唐無稽に描かれます。子どもたちはあらゆる手を使って攻めるのですが、それに対して大人である広告屋も本気で対抗しますし、チョコレート王は面白がるのです。この手の子どもが大人に対抗する話では大人が「嫌な人」として書かれがちなのですが、ここではそういう描写がないのです。もちろんはじめは子どもたちをバカにしたり、相手にしなかったりはあるのですが、いざことが始まると本気で対応するんですね。だからこそこの物語がただ単に荒唐無稽の無茶苦茶だけに終わらず、面白さと爽快さをそなえたものになっているのです。
また次から次へとカイたちが考え出す珍アイデアの応酬が繰り返されるストーリーの中に、カイと妹のエピソードを挟むことでカイの人柄を見せるだけでなく社会情勢も見せるやり方が巧いですね。それがあるからドタバタだけで終わらない物語の深みがあるのでしょう。百年近く読み継がれている物語のすごさも思わされます。

『もうひとつのワンダー』(R.J.パラシオ、中井はるの・訳)



『ワンダー』を読んだ時はその前向きさに心が奮えました。親切には勇気を伴うことがある。でもその少しの勇気があれば相手も自分も前へと進むことができる。そのことが実に真っ直ぐに書かれていたのです。
オギーは普通の男の子。顔以外は。そんなオギーとオギーを取り巻く人たちの語りで構成されていた『ワンダー』。そこでは語り手とならなかった三人が今作では語り手となります。オギーをいじめたジュリアン、幼なじみのクリストファー、クラスメイトのシャーロット。『ワンダー』ではあくまでオギーの物語として書かれていましたが、ここでは語り手本人の物語として書かれています。だからこそ書ける物語がありました。そしてこの三人もまた普通の少年少女だったのです。
前作ではいじめっ子として登場しそのままフェードアウトしたジュリアン。彼には彼の物語があり、彼の考えがあったのです。しかしその行動や考えは決して良きものではなかったのです。それにとって反省を促されますが彼は納得ができなかったのです。自分こそが被害者であると思っていたのです。異質な存在が自分の世界に紛れ込んだが故に起こった事件に巻き込まれた被害者であるとしか考えられなかったのです。そのことに対して彼の祖母は自分の体験を語ることで諭すのです。そして彼は自分自身で反省することに行き着くのです。そうジュリアンもまた普通の子だった、ただその普通の子が過ちを犯してしまった。その過ちに気付くことは勇気が必要でした。その勇気によってジュリアンは前へと進むことができたのです。
この描き方の巧さに胸が打たれました。これは児童書だからこそ書くことのできることなのかも知れません。問題に対して真っ直ぐ目をそらさず書くことのできるのが児童書の強みでもあるのでしょう。
そしてもちろんクリストファーにもシャーロットにも自分の物語があります。そのことを示すことによって却ってオギーのことが浮き彫りになることもあり、前作に出てきた他の人々にも思いを馳せることができます。そして『ワンダー』の世界が読み手の中で広がっていくのでしょう。

「羽根をなくした妖精』(ユリヨ・コッコ、渡部翠・訳)



「必読系!ヤングアダルト」と銘打ったシリーズの一冊。そりゃ読まなきゃと手に取ったのです。
フィンランドの作家によるファンタジー。虹の世界から地上へとやって来た妖精のイルージアは、森のトロールのペシと出会う。オニグモの奸計によって羽根を奪われたイルージアは、ペシとともに地上で暮らすようになる。
フィンランドの森(自然)の様子が美しく描かれています。鳥たちは春になるとやって来て卵を産み育てる。樹々や花々は虫や動物を介して受粉し種を広める。そんな動植物の営みが擬人化されつつも詳細に書かれています。
いかにして動植物たちが子孫を残し繁栄させていくのか、そのことが作品のテーマのひとつであることは確かでしょう。それは妖精やトロールというファンタジー世界にも影響を及ぼし、また人間世界もまたその自然の営みのひとつであることが示唆されています。それは戦争が押し寄せてきた時代だったからこそ書かれた姿なのかも知れません。
自然の厳しさも書かれながらも、物語全体は穏やかで優しいものに包まれています。それはイルージアとペシによるものが大きいでしょう。種を越えた友愛。美しいものの代表とされる妖精が、毛むくじゃらのトロールに対して何も偏見を抱かないどころか、トロール自身が気付いていない魅力を伝えます。異なるもの同士だからこそ気付くこと、相手を求めることがあるのだともイルージアとペシは語りかけるのです。

『にじ色の本棚 LGBTブックガイド』(原ミナ汰、土肥いつき編著)



LGBTブックガイドとあり、LGBTを扱った小説(物語)が紹介されているのかと思いきや、それだけに留まらずLGBTの歴史や制度改革の運動などの本が紹介されていました。しかも単なる本の紹介ではなく内容の要点が記されているので、この本を読むだけでも過去から現在に至るLGBTの流れ、そしてそこにある問題点が見えてきます。
マイノリティの問題を扱う時に、マジョリティと同じにすればいいという訳ではなく、マイノリティがマイノリティのまま不自由なく生活できること(生きること)ができる世の中こそ目指すものなのでしょう。それはマイノリティが優遇されることではなく、マイノリティに対する目を忘れずに持つことが、全ての人にとって生きやすい世を作る礎となることを意味します。
LGBTという表現は今や定着しつつありますが、便利な言葉となったが故の問題もあるでしょう。つまりは何でも「LGBT」と表わせばそれでいいという感覚。本来性的少数派を4つに区分することはできず、またこの4つにしろ全く別の意味を持っています。よくあるのが「20代のLGBTの男性」のような表記。こういうのに出くわす度に、え?どういうこと?と困惑します。アルファベットで表わすことによって曖昧にしてしまっているのでしょう。ハッキリと口にしない変わりの隠語みたいな使われ方に気持ちの悪さがあります。
そのためには「LGBT」とは何を表わすのか、そのことを知る必要があるのでしょう。「私たちとは違う何か」と線を引き区分するための言葉にしないためにも。その手助けとなる本も紹介されています。
またここではまんがを含めて創作(物語)も紹介されています。それは性的少数派が生きるためのロールモデルとしての役割を果たすものかも知れません。マイノリティは周りを見渡してもモデルとなるものが見付けにくいものです。そんな中で同じ境遇(もちろん全く同じではないけれど)の人物の姿が描かれるのは心強いものです。他者の生き方に共感する。たったそれだけのことも難しくある。だから物語はそんな人たちの力となるのでしょう。それはもちろん実在の人物を紹介したものも同じ。やはりそこに物語があり、その物語に救われることもあるのでしょう。
プロフィール

大吉

Author:大吉
物語の魅力を伝える古本屋をやっています。

好きな作家は、有栖川有栖、田中芳樹、江戸川乱歩、倉知淳、恩田陸、北村薫、宮部みゆき、京極夏彦、小川洋子、殊能将之、梨木香歩、泡坂妻夫、東川篤哉、綾辻行人、長野まゆみ、大崎梢、恒川光太郎、吉田篤弘、上橋菜穂子、岡田淳、R・ダール、E・ケストナー、などなど。気になりゃ何でも読みます。

子どもたちに物語の面白さを伝える、そんな駄菓子屋のような古本屋を目指します。

「古本 大吉堂」大阪市住吉区遠里小野5−3−1




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