『野川』(長野まゆみ)



長野まゆみ式正統派青春小説といった感じでしょうか。
両親の離婚と父の事業の失敗のために中学校を転校した主人公。その中学校の立地から付近の地形に興味を持ち、少し変わった先輩や先生に誘われて(騙されて?)新聞部の新たな部長となる。その新聞部では伝書鳩を飼育していた。
地形や地学の用語がさらさらと出てきます。ああ「ブラタモリ」で説明していたなあと頭の中で地形を思い描くのですが、はたしてきちんと再現できているのやら。それでも頭の中で野川が流れ土地が隆起し形作られて来るのです。
文章で表されているものに血肉を与え形を成すもの、それが経験であり知識なのでしょう。そして知識というものは人の中に体積していくものなのだなと実感させられました。
それは作中で語られる蛍の逸話にも表れています。他人の経験を聞くことで我がものとすること。それは何故小説を読むのかという答のひとつではないでしょうか。自分ひとりでは経験し得ないものを疑似体験し我がものとして肥やしとする。直接的に実用のためになることは少ないでしょうが、そこから芽を出すものもあるでしょうし、発芽を促すものとなるものもあるでしょう。それが小説の(物語の)力なのでしょう。
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『こゝろ』(夏目漱石)



そういえばきちんと通読していなかったと、今更ながらに読みました。あれ? 漱石ってこんなにも読みやすかったっけ? と思いながらスルスルと読み進めたつもりだったのですが、実際は普段よりも時間が掛かっていました。これは面白い感覚ですね。読みやすさと読み応えの共存というのでしょうか。
エゴイズムと罪の意識の葛藤。それだけならば、下の「先生と遺書」のみでも書けるのではないか。でもそのできごとを経た上でどのように生きるのか。それが上の「先生と私」で書かれているのでしょう。しかも他者の目から書くことにより、罪を背負った者の姿を浮き彫りにしているのでしょう。またその罪について最後まで明かさないという一種ミステリ的手法により、読者は引き込まれながら先生の内へと入っていくのでしょう。
となれば、中の「両親と私」の立場はどうなるのだろう。てっきり下編のあとで私の思いが書かれ、そこに両親の(死にいく父への)思いが絡むのかと思いきや、先生の遺書のみでぷつりと途切れてしまう。しかし中編の最後、その遺書を読んだ私が死を目前とした父を置いて先生の元へと行く、そのことが答えなのでしょうか。それを書くためにこそ中編は存在しているのでしょうか。
漱石については研究され尽くされているので、その答えもきっと誰かが述べられているのでしょう。しかし今は自分の心の中でしばらくその思いを熟させてみます。

『岸辺のヤービ』(梨木香歩)



いかにもな物語、いかにもな文体、いかにもな挿絵、そんないかにもな要素が集まり素敵な作品となっています。こんな作品がいま生まれた喜び、いま出会えた喜び。
マッドガイド・ウォーターの岸辺に棲む小さないきもののヤービ。ウタドリ先生が偶然出会ったヤービから聞いた彼らの物語。ものを食べることに疑問を抱いたいとこのこと。ママを探しに冒険したこと。新しくできた友達とお茶会を開いたこと。冬ごもりの準備を始めたこと。
ヤービが出会ったのが学校の先生、大人であることがこの物語の肝となるのかも知れません。例えば体の弱い女の子でなく、例えば好奇心旺盛な男の子でもなく。大人であるウタドリ先生に、小さないきものの中でも子どもであるヤービが起こったことを話す。そのため物語の語り手は小さないきものたちの世界を知らぬとも、聞くことでその世界を自分で再構築して我々に伝えてくれます。
ヤービよりも少し高くから遠くまで見ることのできる大人の目で受け取っているので、ヤービ自身も気付いていないお話の奥にあるもの向こうにあるだろうものをも感じさせながら語られます。弱肉強食の食物連鎖のこと、変わりゆく自然環境のこと。あなたと私の繋がりのこと。それが世界の広がりとなり、より一層ヤービたちの息吹を感じさせるのです。
ふだん本を読みながら映像化を望むことは少ないのですが、これはアニメ化されてテレビで放映されたらいいなと思いました。身近にこんな物語があればいいなと思うのです。心が豊かになるだとかなんだとかでなく、だってその方が楽しいですもの!と言いたいのです。

『あたらしい図鑑』(長薗安浩)



扁平足がきっかけで出逢った老紳士は詩人だった。
過去様々な作家が「少年と老人と夏」で物語を紡いでいます。この組み合わせはある意味定石なのでしょう。しかしだからこそ難しいテーマでもあると思います。そして見事にここにしかない「少年と老人と夏」が描かれていました。
言葉にならないものを言葉にするのが詩人。そんな詩人からもやもやとした言葉にならないものをスケッチブックにスクラップしていけと言われる少年。はじめはもやもやとしたものとは何なのか、それ自体がもやもやとしていたのが、気になる言葉を次々に辞典で調べ自分の言葉にしていく内に現れるもやもやとしたもの。言葉に向き合うことによって、世の中のアレコレ森羅万象とも向き合うことになる。言葉と向き合うことで世界は広がる。そんな真っ直ぐなメッセージが眩しく素敵です。
出逢った瞬間に恋に落ちる憧れの少女、気の置けない親友(この少年もまた己に真っ直ぐで素敵なのです)、そんな青春もの直球な要素を加えながら、詩人と少年の交流がかっこよく描かれます。そう、かっこいいんですよね。詩人もその詩人に対して真っ直ぐな少年も。このかっこよさが青春小説の醍醐味なのでしょう。

『ぼくは落ち着きがない』(長嶋有)



実は初めての長嶋有です。買取でやって来た本が気になり手に取りました。こういう出逢いも面白いものです。
とある高校の図書部の日常。図書委員でなく図書部。図書室にまつわるあれこれを図書委員とともに行ない、図書室を区切ったスペースを部室としてたむろする。皆それぞれ「ふつう」の高校生でありながら、クラスからはどこか「浮いた」存在。部室の中では部室の中での「ふつう」を得られるが、そこでも「役割」を演じるともなく演じる。自分の立ち位置というものだけでなく、ちょっとした受け答えの仕方などにも瞬間的に反射的に演じている。
図書部といっても部室ではまんがを読んだり携帯電話をいじったり。行き着く場として図書部があり、そのため部活の掛け持ちのものもいるというのは、遥か昔の高校生時代を思い出し、そうだったよなあと懐かしい感傷に浸る部分もありました。もしかすると青春小説というものは、そんな大人の感傷の受け皿としてあるのかも。
ひとりの女子高生の視点で描かれながらも、不意に不登校を宣言するもの、浮いた集団の中で浮いてしまうもの、将来に思いを馳せるもの、集団を冷ややかに見ながら集団から離れずにいるものなど、それぞれの思いが淡々と交差します。いや交差せずバラバラに飛び交っていたのかも。しかもひとりの視点で追えなかったものをカバー裏で明かすという飛び道具的なオチ付きで。はて、この部分は文庫ではどうなっているのだろう?
プロフィール

大吉

Author:大吉
物語の魅力を伝える古本屋をやっています。

好きな作家は、有栖川有栖、田中芳樹、江戸川乱歩、倉知淳、恩田陸、北村薫、宮部みゆき、京極夏彦、小川洋子、殊能将之、梨木香歩、泡坂妻夫、東川篤哉、綾辻行人、長野まゆみ、大崎梢、恒川光太郎、吉田篤弘、上橋菜穂子、岡田淳、R・ダール、E・ケストナー、などなど。気になりゃ何でも読みます。

子どもたちに物語の面白さを伝える、そんな駄菓子屋のような古本屋を目指します。

「古本 大吉堂」大阪市住吉区遠里小野5−3−1




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